ハルを愛する人は 心清き人

魂が消えてしまうってどういう事?


大切な人や物を無くした、亡くした時に後悔するのはきっと、

無くしてしまう前に愛する事が出来ていなかったんじゃないかって。


例えば、血が繋がっているとか、例えば、共に暮らしているとか、

例えば青春を共に過ごしたとか。


でも、きっと後悔が残るのは愛が足りなかったのかも知れないなって。

ただ、後悔する分だけ思い出せるのもいい事だけども。


個人的に死が訪れてしまったら、それはもう受け止めるしか無い現実で。

どう願っても生きれない命には何も出来ないし抗えない。


悲しいな、悔しいな、なんて事は当然思うけれど

一番堪えているのは当の本人だ。そう思うとそれほど感傷的にはなれなくて。


仮に今、親族の元に戻って共に暮らす事が自身に後悔を残さない事だとしたら、

それも違うと思うし、そばにいる事が全てでは無い。


墓参りが嫌いだった。

そこには誰もいないし、誰もいないという証に墓石に名前があるから。

もう、いないと確認する行為に思えて嫌いだった。


墓を磨くより、思い出してほしい。きっとそんな死生観が強いのだと思う。

死を受け止めるほど強く無い、そういう事ではなく思い出す事が大事なのだ。


魂も思い出も消えない。

そして、その事はきっと形式だった儀礼で思い出されるものでもない。

魂も思い出もいつだって思い出せる。


そう、いつだって魂は共に。


ある日のバスクリンに、ある日の鼻唄に。至る所に魂は生きている。

だから、思い出も何も無い墓前は好きじゃない。


魂は消えてしまう?

もし、そうならば生き続ける事、息絶えてしまう事の違いはどこにあるのだろう?

誰だって掛け替えのない時を生きている。


人の時間を強引に奪う程に人は我儘に出来ていなくて、

縁や運命できっと思い出す。物理的な距離や強烈な思い出が全てでは無い。


どうしたの?

例えばこんな時、どう思う?

どうしたらいいかな?


そんな時にふと思い出し、立ち止まる。そんな事がある。


魂は消えないし、魂を刻む為に生きているし、存在している。

どうか、誰か大切な人の死が重荷にならないように。

きっと、それは誰も望まない事。



何気ない毎日を何気無く特別な気持ちで。



同じ日は二度と来ないのだから、必死に仕事をしてもいいし、

ノンビリ家で寝ててもいいんだよ。



生きている限り。





iPad miniよりも鯛、カツオsashimi

こんにちは、日本は春が来た頃でしょうか?



私達、何となく気が合うだけで、ずっと一緒にいただけだよね



そんな言葉を思い出しては辛くなる日々です。


もしも最後にこの人が、つまり私が大好きだ!って思った日の事、

最後にあなたが大好きだ!って思った日の事を少し考えてみました。


永すぎた春という小説があって、私達は二人ともその小説が好きでしたね、

皮肉にも春のこの季節にまたその話を思い出すのは何故でしょう?


永遠と言う言葉が文字通り永遠を表すなら、永すぎる春なんて無いはずなのに、

私達は長い時間をかけて永遠を超えてしまったのかもしれません。


産まれた年が違う事、血液型が違う事、もちろん性別が違う事、

そんな全てを超えて私達はあったのだと思いたいし、

実際にあったから今があるのだと思います。


人を絆すものが時に熱情であるなら、

その夢から覚めた時に還る場所もあるのが人なのでしょう。

熱情は永遠に続くのでしょうか?


最高のスタートダッシュで乗り切るには100m走が限界で。

生憎、人生は100mでは終わらなくて、

いつか疲れてしまい羽根を休めたくなる時もあるでしょう。

人生は長い。


ふとした時。

例えば物凄く美味しいおつまみを見つけたら、どうしよう?

きっと1番に知らせたくなるのはあなたかも知れません、いえ、きっとそうです。


ずっと撮りためた写真、言葉があります。

どんどん溜まって行くけれど、どこに放出すればいいのでしょう?

感情の放流。そんな事です。


今までは、全てを、思うがままを、熱情を、その時の雰囲気や言葉を、

想いを伝えて来た写真も言葉も、もう伝える事が出来ない。


それって、なんて悲しく、なんて他愛も無い事なんでしょうか。

きっと知らない人はこう言います。どこかで表現すればいいと。


でも、きっと違う事、それは全然違う事で。

私達はきっと二人なら共感出来る、二人なら反応する間合い、

言語を持っていたように思います。

それが私だけの気持ちじゃ無いと信じて。


笑顔にしたい、一緒に考えたい。そんな事じゃなくて。

笑顔になるだろうな、一緒に考えてくれるだろうな。

そんな事を思っていたはずです、少なくとも私はそうでした。


そこで起こる化学反応が予想を大きく超えるわけでもなく、

予想よりつまらなく終わる事もなく、いつも少しだけ

二人で考えて前に進めるようなお話。そんな事が二人、大好きでしたね。


何も変わらない、何も起こらない。

それでも二人で進んで来たということはなかなか世間では

出来ないことのようで、胸を張っていいと思います。


本当に何も変わらず、何も起こっていなかったなら長い歳月はきっと過ごせなかった。


そう思うのが本心です。


どこかしら、普通で、でも普通に見えてどこにもない何か、

共感覚ともまた違う二人の世界があった気がします。


それは心地よく二人を包み、幸せにしたけれど、

その幸せはその時に気付く幸せでは無かったようです。

けど、きっと幸せでしたよね?


ロマンチックな言葉は言えないけれど、本当のロマンチックな想いは

伝えられていたような。そんな不思議な感覚になります。


家族以外の人と長く過ごす、それはきっと夫婦や二人の家庭と

いったものかもしれません。でも、そういった形式に踏み込む勇気は無くて、

踏み込む意味も見出せなくて。だけど、少し幸せで。


大きな幸せって何でしょう?それは恋?愛?

でも、大き過ぎて持てない幸せなら手持ち無沙汰になって

投げ出したくなるかもしれませんね、私達なら。


何も出来なかった休日に、何をするでも無く二人一緒にいた事が幸せで、

本当に純粋に幸せで。


でも、いつか気付かなくなる幸せ。


そんな事を思い出しています。

しっかりしてよ、しっかりしなよ、優しくなれよ、優しくしてよ、

そんな言葉を言い合ってた春の日を思い出します、

春に出会ったわけじゃないけれど。


春という季節が春らしくあるには、春らしく感じるには、

きっとこんな気持ちが必要で。春を春たらしめんのは、こういう感情を揺さぶるからだと思うのです。


そう、きっと春だから今日は書いてしまった事。

春だからまた、朝には忘れているような事。

でも、春に書いておきたい事、春にしか伝えられない事、言葉。



それを今夜は書き残しておきます。